今回は、オーストリア・ウィーンのアーティスト、フンデルトワッサーについて。
 
フンデルトワッサーは画家、建築家として世界的に有名です。最近日本で話題になったのは、大阪行政での税金の無駄使いの象徴としてメディアなどでも取り上げられていた、不思議なゴミ焼却場を設計したことでです。
僕はまだ大阪の現場には見にいったことがないのですが、彼の建築には前から興味があり、ウィーンに行って彼が設計した集合住宅を見たり、興味深い建築のサンプルとして学生にビデオを見せていたりしました。
 
ワッサーの作品は渦巻きや曲線で形を表現し、色使いがカラフルで、有機的なヴィジョンを感じさせます。
建築はグリム童話に出てくるお菓子の家みたいに幻想的、夢見るような装飾性を持ちながら、しっかりとした現実感があります。
本当に不思議な建物です。
 
しかしそんな一見訳のわかんない建物を大阪市のゴミ償却場にしたものですから、税金の無駄使いのサンプルとして、こんな窓枠にするといくらかかるとか、このペイントにするといくらかかりとか、こんな気持ちの悪い飾りは無駄だとか、いかに我々の税金の無駄使いがおこなわれているか、ワイドショーのレポーターの格好の標的になっていました。
たまたまテレビを見ていて、僕は役所のカラ出張やスーツの支給と同じにするんじゃないぞーと思ったわけです。それは実は税金のムダ使いが問題ではなく、正義の名のもとに異質なものを排除しようとするいやーな感じを感じました。
 
以前ウィーンに行った時、たまたま電車のコンパートメントで一緒になった年配のオーストリア人が、ウィーンの中のハンガリー系のホテル、レストラン、料理などをさりげなくこきおろし、返す刀でワッサーの作品を渦巻きのゼスチャー入りでバカにしました。
僕がワッサーを好きだと言った話の流れの後だったので、余計に彼が何を言おうとしていたのかわかり、冷んやりした感じを思い出し、テレビのレポーターの感覚と重なりあいました。
 
その時見にいったフンデルトワッサーハウスと呼ばれる集合住宅は、実は賃貸市営住宅で、計画から、1986年の実現までに長い時間がかかっています。
行政や、保守的な市民の反対にあって、何度も計画が頓挫したからです。ところが、できあがると入居希望者が殺到し、評判もよく、今ではウィーン市街の人気観光スポットになっています。それは単に建物の外観が珍しく奇妙だというだけでないと思っています。
 
 
ワッサーは言います、「人間は三つの皮膚をもっている、一つめは肉体の外側ある皮膚、二つめは衣服、三つめは家、つまり住まいである。この第三の皮膚を有機的なもの、創造的なものにつくり変えていくこと、さもなければ、人間は滅んでしまうだろう。」
 
ワッサーハウスの内部は、タイルの装飾にはあえてガラスやタイルを割りバラバラにしたモザイク状態にして接着したり、廊下や、踊り場の装飾には、そこで働く職人さんたちの絵を使ったり、窓は高さ、大きさもまちまち、枠の色も様々で、音楽的なイメージを喚起させます。廊下などの共有部分の床は平らでなく、微妙に波うち、不安定な感じになっています。
ワッサーは言います、「床を平らにしたら、人間の感覚はそれに慣れて衰えてしまうだろう。」このようにワッサーは人間の五感がいつも働き、有機的に統合され、住む人が疎外されない空間をつくりだすことに挑戦しました。
 
彼自身がウィーンで住んでいた住居はケルントナー大通りで、(日本で言えば銀座通り)、その都会のど真ん中の建物の屋上に畑をつくり、植物で水を濾過し、ゴミをださないシステムをつくりだしました。30年前から、今流行のエコロジー生活を実践し啓蒙してきました。現在話題になっているビルの屋上での草屋根も彼が考えたシステムです。
 
 
絵画も同じヴィジョンで描かれています。「渦巻きは永遠の時間の象徴。自然の中には、直線などない、あるのは曲線だけだ、直線は人間を破滅に導くだろう。」。
狭い意味での美意識ではなく世界に対する根本的な問題意識が、絵画や建築と言った造形物としてあらわれています。
 
だから、彼の絵画を見ると〈世界はこのように見える〉と言う視覚だけのヴィジョンではなく、〈世界はこのようになっている〉と言う根源的な意味でのヴィジョンがみえてくる。それは現代の合理的な考えや、アートのモダニズムに対する大きな批判としても存在しているのです。だからこそ人々をひきつける魅力があるのでしょう。
  
大阪の行政がどんな考えからワッサーの建築を許可し、推し進めたかはわからないが、何となく大阪ならではのゆるい感じがして、いい。ちょっと変わっているけれど、面白そうだなで成立しちゃう感じ。カラ出張や、ただのスーツは困るけれど、それらと単純に一緒にしてしまう乱暴な正義感はなんだか貧しい感じがしてしまう。
 
ワッサーはすでに亡くなってしまったけれど、生きている時は社交界のパーティーに素っ裸で現れたりして逮捕されたり、なかなかスキャンダラスなひとだったらしい。
まるでアダムとイブがりんごを食べる前のように、キリスト教以前の世界を意識していたのか、そういえば前回とりあげた岡本太郎が注目した縄文の世界も呪術的な曲線や渦巻き模様で土器をつくっていた。
フンデルトワッサーは色々と日本とも縁があり、百水という日本名ももっていた。
僕は彼の絵を見ているといいようのない不思議な開放感につつまれる。今回この文章を書くために一枚、一枚画集をめくり、絵画とは、こういうものだったのだなあと改めて感じた。
 
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