先日、障害者のアートのコンペである「エイブルアートアワード」で選考委員をした。
そこで奇妙な作品に出会った。自閉症、ダウン症、統合失調症など応募してくるアーティストの障害は様々だ。長く関わっていくと、そんな中にもある傾向があることがわかってくるのだが、その奇妙な絵画作品は、今までの障害者のアートの傾向とは明らかに異なった感覚で表現されていた。その感覚は同席していた他の選考委員も共有されていたらしく、コンペの賞はそのアーティスト伊藤泰行が受けることになった。
 
 素朴派(ナイーブ・アート)と呼ばれる絵画のスタイルがある。
名称については印象派とかナビ派とかと同じで、便宜的に命名されたカテゴライズにすぎないけれど、その中身は現代のアートの本質的な問いかけに重なっていて、とても重要だ。
素朴派についての説明で、よくいわれているのは特に美術の教育を受けてなく、また何かをお手本にするわけでもなく、内的な欲求により作品をつくってきた人達で、そのほとんどは、つましい職業についていた。
そのスタイルは人間の数だけスタイルがあるというくらい、皆自分勝手に絵を描いている。
そして共通しているのは一般的にいってへたくそな絵に、素朴派の名の通り素朴にみえることだ。
へたくそというのはデッサンの狂い・、突拍子のない色彩の使い方、歪んだ透視図法など、要するに歴史的な絵画の約束事をほとんど意識していないで表現しているということなのだが、自らの切実な何かを表現するのに、そういった絵をつくる上での、既成のテクニックや概念を必要と考えなかったということだろう。
また、素朴派と呼ばれることに大切なのは、ほとんどがいわゆる具象絵画あるということで、同じ意味を持っていても抽象に近くなるとアウトサイダーアートと呼ばれることが多い。
この辺のカテゴライズも美術史的にまだ曖昧なのだが、その辺の話はややこしいので別な機会にするとして、素朴派の話だ。  
 
その素朴派の中で特に有名な画家がアンリ・ルソーやアンドレ・ボーシャンなどだが、彼らの作品は先ほど書いたように具象画で人物や木や森、建物、風景など目に見える世界、誰が見ても、何が描いてあるかわかる画面になっている。
ただそれがどこか変なのだ。アカデミックな美術教育を受けると、描きかたのポイントを学ぶのだが、それは画面の中でしっかり見せたい部分は集中し、そうでない部分はさっと流して描く。
その描き方のヒエラルキーがそのまま画面に定着し、見る側にもそのヒエラルキーが伝わるようになる。それによって画面にメリハリが生まれ、空間が生きてくる効果をアカデミックな美術教育によってしっかり身体に刻み込まれているのだ。
しかし彼ら素朴派達の画面はそのようなヒエラルキーが存在せず、画面隅々までしっかり描き込んであるため、画面全体がドーンと前にでてくるという奇妙な印象を受けるのだ。
特にアンリ・ルソーなどは、アフリカのジャングルを描いているのだが、その描き込みのエネルギーが葉っぱ一枚一枚に感じられ、息苦しいほどだ。(ルソーは実際にはアフリカを訪れたことはなく、パリにあった熱帯植物園に通い、そのイメージを得てアフリカのジャングルを描いたといわれている。)
 
そこには実際、目で見たことがある具体的な世界を、表現している、いないに関わらずアーティストにとってとても切実なメイージ・行為として絵を描くことが存在している。
アートの世界で成功したい、有名になりたいという思いより、絵を描くことによって、救われたい、自分自身の内的なビジョンを外に出したい、また表現することができる喜び・充足感が勝っていて、画面全体を覆っているのだ。
アンリ・ルソーなど素朴派が、世に出た当時は物笑いの種になり、アートとしての評価も低いものだったが、時代が現代に近くなる程、その評価、価値は高まっている。
 
 
で、伊藤泰行の作品だ。伊藤は2003年に突然視力低下(レーベル病)により中心部分の視力を失ってしまう。それから伊藤は絵筆を取り独学で表現をはじめるのだ。
その作品は描き方やモチベーションといい、どこか素朴派と重なって見えてきたのだ。エイブルアートアワードコンペで私は選評にこんなテキストを寄せた。
 
「その中で選ばれた伊藤泰行さんは、視覚障害をもってまだ3、4年と聞きました。それは本格的の絵を描きだした時間と重なっていることでしょう。
こころならずも障害をもつことになって、様々な葛藤、苦しみ、怖れを感じたことだろうと思います。
その怖れや葛藤や苦しみをきっかけに、はじめて表現として自覚的にキャンバスにむかい、油彩による奇妙で魅力的な世界を生み出しました。
その世界は不思議なことに苦しみや葛藤が直接的に表現されているのではなく、眼球や地球などの球体にたいする奇妙なイメージ、2重3重に重なった空間の構造、生理的に綿密なタッチや生々しい原色の使い方など絵画的な要素によって成立し、結果的に人間にとっての大きな「問いかけ」になっています。
それは、作品は単なる障害の反映ではなく、障害を持つことにより人間の内部にある「何か」が大きく動き出し生まれてきたたからだろうと考えます。
欠損をもつことによって本人もまわりの人間も、初めてそれがあることに気づき、現れてくる世界があります。
障害がある、ないという問題ではなく、その向こうにある人間という存在の世界の拡がりや深まりが問題なのです。
それは当然私達の問題そのものですし、障害のあるなしの線引きは無意味だと感じます。
伊藤泰行さんの作品には、あらためて障害者のアートということを考えさせられ、アートの原点を確認させる力がありました。」
 
伊藤は絵を描きはじめるまで、(多分現在も)美術館にいったことがないし、高校では美術の授業を選択せず、アートの知識もほとんどないという。
当然アンリ・ルソーもサルバドール・ダリも知らなかった。
また、彼の目が見える範囲は、眼の隅の部分幅5cm、奥行も10cm位しかないと直接聞き、驚いた。それで160cm×130cmの作品を何点も描きあげているのだ。
つまりその狭い視野から導かれる部分を繫ぎあわせていって、大画面を成立させているのだ。もう驚き以外の何物でもなかった。
その描き方が、素朴派と同じように画面の中どこを取り出してもエネルギーが充満している。
いわば画面の等価性を獲得しているのだ。この画面の等価性という概念は、現代では西欧以外、西欧ではいわゆるギリシア・ローマ文化以前にさかのぼらないと見えてこない「装飾性」というもうひとつの精神性(たとえばケルト文化やアラブ世界)の可能性を感じさせるし、画面から立ち上ってくるある種の不気味さは(これは素朴派にもいえるのだが)、どんな人間の内部にもある、不可知なもの、テレビ的にいうと「闇」の部分を感じさせる。
 
伊藤の作品は、障害者アートのカテゴリーにはいるのだろうか、それとも現代の素朴派とされるのであろうか。・・・・この問いは意味がないし、くだらないことだ。ただ、「これはアートです」と言えばいい。
何故なら素朴派、アウトサイダーアートに関わらず、表現主義、シュレアリズムに関わらず、印象派、ゴッホに関わらず、アートはすべて同じ「問いかけ」をこちらに投げかけてくるからだ。
 
 それにしても、彼の執念、過去に見たものを絵画として表現しようとするモチベーションは、伊藤が受けた障害の衝撃の深さを物語り、ほとんど視力を失ってから絵を描こうと決心した伊藤の人間としての力にはたくさんの勇気をもらった。
 
 
 

 

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