今から、25年前に初めてイタリアにいき、フィレンツェに1ヶ月滞在し、その間、ルネサンスの作品を、フィレンツェ周辺の都市を含め、見てまわった。歴史の中で、ヨーロッパの様々な文化の成立基盤の物質的残像の中から、アートについて考えるきっかけとなる滞在だった。
いわゆる芸術作品として、素晴らしいもの、美しい作品はたくさんあり、それらは私の心をとらえた。
 
たとえばサンマルコ修道院のフラ・アンジェリコのフレスコ画(漆喰の壁に直接、絵具で描いていく方法の絵画で、いつまでもみずみずしく見える効果がある。フレスコとは英語でフレッシュの意味。)。
僧侶でもあったアンジェリコによる絵画はシンプルで素朴、そしてなによりその信仰心による作品の強さがあり、作品を見ることがひとつの経験として、私に刻まれた。
 
また、アカデミアで見たミケランジェロの奴隷シリーズも、力強さと繊細さが統合されたパセティックな表現に圧倒された。
そんな中でも最も印象に残っているというか、複雑な感情を受け、私の作品と現在でも結びついているのが、今回のテーマ、レオナルド・ダ・ヴィンチだ。
 
レオナルドについては、フロイトやポール・ヴァレリーなどの思想家、文学者、美術史から心理学、今ではミステリーの世界まで、様々に論じられているので、今さらここで、レオナルドの全体像を紹介するまでもないと思うし、またしたところで意味がないと思うので、単なる1アーティストから見たレオナルドのドローイングについて書いていきたい。
 
まず、最初にひかれたのはウフィッツ美術館にある「マギの礼拝」と呼ばれる大きい正方形の絵画。これに何故ひきつけられたかというと、いまだによくわからないのだが、多分、この作品が未完成だったからじゃないかと思う。
未完成ということは、画面に思考や感情のプロセスが残っていて、作品として閉じられていないということだ。迷いが感じられ、まだどこに行き着くのか分からない不安定さがレアリティを生み、私をわくわくさせた。
 
具体的にいうと、線や、絵具の塗りが生々しく残り、レオナルドの線をひいていき、塗っていく身体的な感覚が痕跡として存在している。言い換えると、線の震え、塗りのためらいにレオナルドの体温が残っていて、人間的な感覚が強く呼び覚まされる感じだ。
作品として閉じていく方向で、作品を完成させることの不可能性に直面したレオナルドの現実感覚に現代的なレアリティを感じるのだ。
作品の数の少なさに対する未完成作品の多さを考えてみても、芸術作品にたいして、レオナルドはその時代の一般的な芸術家とは異なる認識、感覚を持っていた事の証明だろう。
 
そして、その異なる認識、感覚は現代と通じていて、それが最も現れているのが彼の残した手稿にあるドローイング(ドローイングの中にメモ、スケッチ、デッサンも含まれる)だろう。手稿はスケッチとメモで構成されているが、芸術作品のためのドローイングではなく、自身の観察記録、思考、イマジネーションのプロセスの記録という意味合いが強い(よく知られている事なので余り触れないが、この様々な記録の多様性と可能性も驚くべきものだ)。
 
その中でも私が最もひきつけられるのが、解剖図だ。
(まだ、キリスト教的ドグマが強い時代の行為という意味においても革命的なのだが、そのあたりの歴史的考証、ネオプラトニズムの影響、ガリレオやブルーノとの歴史的連動性などは今回のテーマとずれてくるので言及しないことにする。)
 
そのような時代を背景にして、物質としての人間そのものの身体を切り開き、肉を切り、骨と分離し、内臓や卵巣の血を洗い、腑分けし、その腑分けしたものを冷静に線によりドローイングし、また、それを切り開き再び、ドローイングすることを繰り返していく。
まさにその時、レオナルドのペンやチョークは彼が使っていたであろう解剖のためのメスと同じものとなっている。
ペンはメスそのもので、われわれの身体を切り裂き、解剖していく道具となる。
 
レオナルドの線の前ではあらゆるものの覆っている皮膚が剥がされ、隠されていたものが明るみにだされていく。これは文学的な比喩でもなんでもなく、レオナルドのデッサン、ドローイングの魅力である客観性、ある種の残酷さを秘めた線はそのような解剖学的な探究心によって生まれてきたのだ。
私はそれを解剖学的線、解剖学的ドローイングとよんでいる。その生成は感覚と知性の働きが統合され、一本の線となり、レオナルドの視線と共に、動き、震え、やがて、線そのものが生命をもっているがごとく自由に動きだす、まるで、現代絵画のように、あるいは音楽のように。
 
線は人間の想像力によって、様々なものを分断、解剖すると共に、異なった要素を結びつけ、連動、連想させ世界の解釈を変えていく。
 
彼の線は植物、山や川など身近な自然も人間の身体と同じ視線で捉え、隠されているその暴力的ともいえる生命力を明るみにだしていく。
それはやがて水の流れから大洪水という妄想的なヴィジョンに至っていく事となるのだ。そして、その妄想は予言となり現代にも、つながっている。
 
 レオナルドは客観的視線、解剖学的思考を持ち、現実を捉え、表現したが、実は目に見えないものをいかにして目に見えるものとするかという考えによってなされていた。
目の前にある世界を、宗教的偏見や先入観、概念にとらわれることなく見ること、そして、存在そのものの神秘に迫るために解剖し、観察し、線をひいていく。まさしく現代的思考だ。そしてその背後には存在の神秘や宇宙の無限に畏怖する感情が存在し、そして、私が何度となく書いている「見えないものを見えるようにすること」がアートだ、という考えにも重なってくる。
 
このテキストの真ん中あたりでレオナルドは他のルネサンスの一般的な芸術家と異なる認識や感覚を持っていると書いたが、こうして論を進めていくとそれが何故だか解ってくる。
他の芸術家は単なる画家で、一枚の絵画を完成させることが彼らの仕事であり、芸術だったが、レオナルドは宇宙とは何か、人間とは何かという問いを考えるために線をひき一枚の絵画を制作した。
だから、物理的、社会的な意味での完成作品には本質的には関心が無かっただろう。
私が感じたアンジェリコやミケランジェロの作品から受ける感動とは異なっているのもその点であり、現代性を感じるところでもある。
モナリザや聖ヨハネの絵画に現れている悪魔的にも見える神秘的な笑みは、単に対象を正確に描くことや、ヒューマンな想像力だけでは生まれてこないものだ。
このテキストを書き、私が、現代に生きるアーティストとしてドローイング的な作品を制作している理由のひとつの原点がレオナルドだということを再確認できたように思う。

 

 
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