小雨降る中、木場にある現代美術館へマルレーネ・デュマスの展覧会「ブロークン・ホワイト」を見てきた。
いつもここに来て思うのは、せっかくの現代美術館なのに駅から遠いし、不便な場所にあるなあ〜ということ、これではあまり人はいかないよ。
それと、まわりの環境が全然現代を感じさせない矛盾、これだったら石原都知事のアート行政のひとつ「東京ワンダーサイト」のコンセプトである都内の利便性が高いビルなどにお金をかけず、内装を変えるだけでギャラリーを作り、展覧会を企画していく方向性のほうが現実的だよなと思う、ただ、その後の運営は四男の疑惑もあり最悪ですが。
そんなことを考えつつデュマスの展覧会場に足を踏み入れた。・・・そこにはそんな現実的な問題を一瞬のうちに忘れさせてくれるパワーがみなぎっていた。
 
マルレーネ・デュマスは1953年南アフリカのケープタウン生まれの女性画家、現在はアムステルダムに住んで制作とアート教育に携わっている。展覧会場に入るとそこには、古典的、伝統的題材である人物像、女性ヌード、男性ヌード、人の顔など一瞬見慣れた光景があるが、なにか違う。なんだかザワザワと胸騒ぎがしてくるのだ。それは現代のリアルなロックなどを聴くと理屈抜きに自分の細胞が沸き立つ感覚に似ている。
 
デュマスの絵画はグラビアや様々なポートレイトなどの写真をモティーフに描いているものが多い、そのため、どこか既視観があるのだが、何かちょっと違う感じ、なんだかに向こう側に突き抜けていくものが感じられるのだ。そのちょっと違う感じとは何かということを考えた。
 
 
ロックミュージックが電気を通し音を増幅させディフォルメする事によってはじめて音楽に人工的な歪みと、人工的なものが持つリアリティ、すなわち現代性を獲得し成立したことと、デュマスの方法がとても近い気がする。従来の絵画はモデル(モティーフ)を媒体に表現を成立させてきた。いいかえればモティーフと画家の自然な関係性によって再現、描写、表現が問題にされ作品が生まれた。それは作品が持つ意味や価値が先験的に社会とつながっていたからこそ成立できた。
しかし、映像などのテクノロジーの発達、第2次世界大戦による様々な価値観の喪失により絵画はその自明性を失った。簡単にいうと絵画は写真の出現により再現性という意味と価値を失い、その絵画が属するアートはアートを支えてきた共同性から生まれる共通の理念、心性やコスモロジーを失った。いわば絵画は2重に失われたメディアだということになる。
それは現代社会がある意味で歴史を失い、個人の内面をも失ったということと重なっている。しかしデュマスに代表される現代アーティストはその自然な関係が失われた場所から、もう一度社会とアートの関係を構築しようとしている。 
 
 
その問題の出発点においてデュマスの場合、南アフリカ出身ということと無関係ではないだろう。たとえばアパルトヘイト、デュマスは個人的倫理を問いかけたり、告発したりというより、社会の制度の問題、そしてその制度をつくりだした文化の成立、つまり白人の目線自体を問題として提出する。
そんな作品が「ブラックドローイング」。この作品は20世紀初頭以降のアフリカの様子を伝える絵はがきの写真集をベースに描かれている。
デュマスは語る「これらの写真から、ヨーロッパの植民地主義者たちが、アフリカをどうみたかがわかります。」「わたしも街を歩いている黒人を描くことをしませんでした。黒人の写真をもとに、絵を描いたのです。このふたつには大きな違いがあるし、それを区別することも重要です。アーティストとして、わたしはイメージに興味があります。わたしの試みは表現、借用、そしてメディアの過去と現在を問うことでしたから、・・・・」。
 
「ブラックドローイング」だけでなくデュマスの作品は一般的な写真というメディアがもっている役割と特性を意識化し、より顕在化し暴きだしている。つまり大衆の様々な欲望の反映、性的な、隠蔽されている差別意識の、あるいは優越感の、残酷さへの、暴力への欲望。それらは巧みにあらゆるメディアに隠され流通している。大衆の欲望を反映している広告写真などはその分かりやすいサンプルだろう。その舌ざわりのよさそうなキャッチコピーがついている広告写真がそのコピーの内容と正反対のメッセージを含んでいることはよくあることだ。
 
 
人間は差別が好きだ、残酷さが好きだ、暴力が好きだ、写真が持つそんな隠されたメッセージをデュマスは描くことを通じてはっきり目に見え感じられるものとする。だから、会場に入った瞬間ザワザワ感覚が動き出したんだ。それが、ちょっと違うぞと感じた大きな理由だったのだと思う。勿論、そういった写真を作品の媒体としたアーティストは多いが、写真・映像などのメディアが持っている隠された欲望をここまで暴き出すことはない。それはやはりデュマスの絵画そのものが持っている力、表現力があるからなのだ。
 
元の写真をなぞったかのようなディフォルメと言えないほど慎ましやかな変形、その小さい変形が微妙さ差異と違和感を見る側に与える。水彩画とインクのドローイングは筆のタッチも感覚的でアバウトに動き拡がりとエロティシズムを感じるほどだ。初期の油彩画は、そのくねるようなタッチに表現された色彩は、F・ベーコンを思わせるような激しい色使いで、顔を描いていながら内臓を連想させられる感覚で、絵具の塗りかたにメリハリがあって不気味でグロテスクなイメージを作り出している。つまり、誰が見ても記号的に、あるいはそのディフォルメが、わかりやすい形で表象されているわけではなく、非常に繊細で絵画的は表現によってその違和感や差異性が表象されているのだ。
そういった意味においても、デュマスは写真、映像などの現代的メディアと絵画を関係させながらも、単に観念を扱うコンセプチュアルなアーティストではなく、しっかりしたコンセプトを持ち、そのコンセプトそのものを食い破るほどの個人的、内的な描くことへのプリミティブな衝動によって作品を作り出している現代における稀有な画家とよべるだろう。
そしてそれらの表現は思考されたものというより、巫女のようなインスピレーションによって無意識の領域から生まれてきている気がする。だからこそ、様々なメディアの中で生きている私達にも感覚を通じてはっきりと、現代性とは何かを手渡してくれているのだ。
 
昨夜、たまたまテレビでデビッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」をみたが、その感覚、現実のザラとした手ざわりがデュマスの世界と共通する不気味な存在感を感じた。
 
 
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