アートについて文章を書きながら、ついつい考えてしまうことは、視覚を通して成立している世界を言語で説明、表現することの無力さと、まだるっこさだ。
結局、作品を見てよ、ヴィジュアルを見てよ、感じてよ、というしかないのではという考えが浮かんでは消えていく。それを言ったらおしまいなのだが、書けば書くほど、説明すればするほど、アート本来の力と離れていく感覚を味わうことなり、軽い失望感を感じてしまうのだ。
 
 今回のフリーダ・カーロについて考えていて、その事を強く思った。フリーダの絵画を初めて図版で見た時の衝撃は言葉にできないものだったからだ。
その時受けた感覚を言語で表現しようとしてもまったく言葉がでてこないのだ。勿論、概略は説明できる。
1907年メキシコに生まれ、画家を志し、共産党に入党し、メキシコの民衆的画家ディエゴ・リベラと結婚し、メキシコの神話、古代の民俗的な宗教と現代的なシュールレアリスムを基盤にして奇妙な自画像作品をつくり続けた。
トロツキーやアンドレ・ブルトン、イサム・ノグチとも親交があり、47歳の若さで亡くなった女性芸術家、こういったところだ。
知識としては間違いじゃないけれど、これでは何も言ってないに等しい。
だから、今回は僕が受けた衝撃のありかに的を絞り書くことにした。だから、全体像は見えにくいかも。
 
まず、書いておきたいことは、僕は、フリーダの作品は好き、嫌いで言ったら嫌いなタイプの作品だということ。
そして、僕が受けた衝撃もその「嫌いだ」という感じに関係している。
「ヘンリー・フォード病院、あるいは飛ぶベッド、」(1932年制作)という絵をみてほしい。
ベッドに横たわる裸のフリーダ、その下腹部の下は血が滲んでいる、フリーダから赤い紐が伸びていて、その先には彼女が流産したときの事をあらわす、いくつかのイメージが描かれている。
それらのイメージは流産の原因となった骨盤、背骨、産まれてくるはずだった胎児、インディオの文化では時間の経過、女性の性の象徴とされるかたつむり、ディエゴが送ったとされる紫色の蘭の花(既にしおれつつある)、そして何なのか分からないが機械、それらがベッドの周りを浮遊し、地平線の向こう側にはその時滞在していたアメリカ・デトロイトの工業地帯が描かれている。
そして裸のフリーダは泣いている。見るからに痛ましい絵だ。
 
「私のことをわかってほしい、私はとても傷ついている、そしてとても孤独だ、」そんな声が聞えてきそうだ。この作品だけでなく彼女のどの作品も、この「私はとても傷ついている、そしてとても孤独だ、」というメッセージが繰り返し表現されている。
たとえば、12年後の「傷ついた鹿、あるいは小鹿、あるいは、私はかわいそうな野生の動物、」。
この作品も図像学的にそのものずばりの作品だ。
フリーダの表現しようとしたものは生きていくことの、存在することの「痛み」の感覚そのもので、その感覚に関係するあらゆる表象をしつこく、くりかえし描いた。
実際フリーダは現実に何度も傷つけられている。5歳で小児麻痺を患い、以降右足を引きずって歩く、18歳時の自動車事故で背骨と下半身を負傷した(後にこれが度重なる流産の原因になる)。
以降後遺症がひどく、慢性的苦痛、そして手術の繰り返し。
精神的にも、フリーダにとって最も神に近い存在であった夫のディエゴと妹のクリスティナとの恋愛による痛み。
このように、生きる事自体が、何度も痛みに貫かれている。
生きること、それは「痛み」そのものだ、という人間存在の根本的事実のはっきりとした具現化に僕は衝撃を受けたのだ。
そしてこの感覚が、どちらかといったら見たくないもの、最初に書いた「嫌い」と言う感覚につながっている。
ここまで、あからさまに自分自身の「痛み」だけをしつこく表現したアーティストはいない。
 
そして、もうひとつ嫌いだという理由に、自分自身の「痛み」にだけ執着する感覚の拡がりの無さにもある。
思い込みが強く、客観性に乏しい感じがするのだ。
フリーダ晩年(1954年)のスターリンの肖像画に顕著だが、ほとんど聖人なみのイメージ、イコンと化したスターリンは滑稽ですらある。
現実に彼女の時代、その痛みを考えると、このような表現も必然かなと思えてくる。
そして、このような自分自身に対する執着力が、作品の力に変換されていったことは間違えなく、アートの不思議さでもある。
 
もう一枚の作品「ドロシー・ヘイルの自殺」、これはフリーダの友人でもあった女優ドロシー・ヘイルの自殺を描いたものだが、ドロシーの後援をしていた人間にフリーダが提案して「追悼画」として送られ、ドロシーの母に捧げられている。
送られた人間はあまりに残酷な絵にショックを受け、破りすてようとしたらしい。
ここで大切なのは、フリーダは悪意を持ってこの絵を描いたのではなく、本当に追悼する意味でこの作品を描き、送ったということだ。この事実がフリーダのもう一つの側面をよくあらわしている。
フリーダは見る人の立場から絵を描いたことがなかったという。
その絵を受け取った人間がどのような感情におそわれるかなど考えられなかったのだろう。
見る側の視点、社会的な視線が必要とされる現代アートとは正反対の世界である。
「ドロシー・ヘイルの自殺」は彼女なりの誠実さ、彼女にとっての真実を作品と向きあうことでつたえている。
自分自身と誠実に向かい合えば、よい絵が生まれ、そしてそれは他の人間にもよい事であるはず、という一種の信仰に近い感覚だ。
この感覚はあのヴァン・ゴッホにも強くあった感覚だ。
 
僕は思う、この愚直な感覚がアートの大きな力だと。
勉強して、様々な知識はついて、一見視野が広くなったように感じる現代アートだが、何か物足りない。
アートはこういったい視野が狭かろうが、ドーンとくるのがいい。
アートに必要なのは信仰に近い愚直な心だ。
嫌いだ、嫌いだと何度も書いたけれど、別にこれは、そのままフリーダのことが好きな理由でもあるな、自分でも驚いた。
本当は、好き、嫌いを語ることでなく、好き、嫌いを超えたところに大切な何かがある、それはたんに知性だけの力では探りだせないだろう。
フリーダは映画にもなっています、が、興味があったら是非、絵をみてください、言葉にならない体験をあなたにもしてほしい。
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