昨年末にゼミの学生を連れて、竹橋にある近代美術館に「アウグスト・ザンダー」と「ドイツ写真の現在」展を見にいっていろいろ感じるものがあった。今回はその二つの展覧会について書いてみたい。 
 
現代アートの中で今とても盛んなのは、写真を使った作品で、かつては被写体がもつ記録性や、事実性に重点を置いた作品や、構図、構成に凝った作品などが主流だったのが、PC(パソコン)の普及により写真の画像そのものを加工した傾向の作品が主流になっている。
それはもはや写真という狭いカテゴリーではなく、現代アートというなんでもありのカテゴリーに属するものとなってきている。この二つの展覧会は、その変化を的確にとらえていたためとてもおもしろかったのだ。
 
 
その一つ目のアウグスト・ザンダーはままさに被写体の記録性、事実性に即した写真家の代表選手。
1876年に生まれたザンダーの代表作でもあり、今回も出品されていたのが「20世紀の人間」というシリーズ、これは600点近くの肖像写真により、ワイマール共和国時代のドイツ社会を全体的に表現しようとしたシリーズで、社会的分類をもとに、1・農民/ 2・職人/ 3・女性/ 4・階級と職業/ 5・芸術家/ 6・都市/ 7・最後の人々、という7つのグループで構成されている。
とくにおもしろいのは、6 の「都市」に含まれるジプシー、政治犯、外国人労働者など、そして7 の「最後の人々」は愚者、病人、狂人、死者、となっていて、ただの職業別人間図鑑というだけでなく、この時代のドイツ社会の、暗部までもが表現されている(そのためナチスからも迫害をうける)。
そしてそこに写し出されているのは、私が知っていると思っていたヨーロッパ人ではなく、どちらかというと、少し前の時代のアジア人が持っていた貧困や絶望が、その表情や身体つきにくっきりと刻印されている。
それはわれわれの社会と変わらない人間の世界だ。たとえば「若い農夫たち」、一張羅で正装し、ステッキを持ちながら気取ったポーズで写真におさまっている3人の若者だが、その背景に広がっているのは荒涼たる農地で、履いている靴も泥のため汚れているように見える。
手も労働者の働く手だ。そして正装した彼らの表情も日々労働に明け暮れる農夫そのもので、
その奇妙なアンバランスさが不思議で魅力的なリアリティを生み出している。
 
ザンダーは自らの仕事の基本は「見ること、観察すること、そして考えること」といっている。それは写真がもつ客観的で即物的な描写力とつながっているし、そしてその基本はカメラが持つメカニズムとそのメカニズムに沿うことによって生まれた力だ。
今、現代でザンダーが注目を集めるのは、写真というものがもつ本質的な力が、考えるべき「何か」が、そこにあるからだろう。
 
 
 次は「ドイツ写真の現在」展、これは今、現在活躍している写真を使ったアートを特集したもの。その中でまず現代のザンダーたるベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻(1930年代生まれ)の作品。一般にタイポロジー(類型学)といわれるもので、被写体となっているのは、ガスタンク、給水塔、採掘塔、溶鉱炉などの産業建築物だ。様々な場所にある産業建築物を一定の光線状態と構図で撮影し、プリントした作品を碁盤の目のように展示する。差異と反復によって産業建築物はまるでひとりのアーチストによってつくられた作品のように見えてくる。それは「匿名の彫刻」と呼ばれる。
これらの作品もザンダーと同様、写真が持つ客観的で即物的な描写力を最大限に利用し、その並外れた客観性において現代のラジカルなアートとなっている。
またベッヒャー夫妻はデュッセルドルフの芸術アカデミーで教鞭をとっており、その時の学生達が新しい写真の可能性を求め様々な試みを展開している。かれらは「ベッヒャー派」と呼ばれ、世界中のアートシーンから注目を浴びている。今回の展覧会のアーチストもその流れを汲むものが多い。
 
まず、アンドレアス・グルスキー、かなり大きい作品で、写真というよりは絵画作品のようだ感覚的に見るものを圧倒する。内容も緻密な細密描写や、デジタル技術による加工修正、形や色彩の反復と抽象化により、私は今まで見たことのない感覚を受けた。拡がりのあるイメージの中に、目には見えないが、日頃感じている不気味さや、現代社会の閉塞感が理屈でなく表象されている。様々な意味でほとんど絵画とよぶべきかもしれない。
 
次はトーマス・デマンド、これも作品が大きい。犯罪現場の室内などを実物大で、紙で精巧に作り、それを撮影し、大きく引き伸ばし展示している。撮影が終わったあとの映画セットみたい、うすっぺらで空虚な感覚に満ちている。見ているとその空虚さに圧倒されてくる、ここには私達にとって大切なものが表象されている感じがする。だがは、それが何なのかがわからない。作者もわからないだろう。でもそれはここにある、そしてそれが現代だろ、そんな作品。
 
グルスキーやデマンドはほぼ私と同世代だが、次のロレッタ・ルックスやベアテ・グーチョウはさらに10歳ほど若い世代に属する。
ルックスは孤独そうな子供と風景の組み合わせの作品をつくる。つくると書いたが文字どおり、デジタル技術によって細部までとことんまでつくり込み、自身のイメージを追及している。ルックスの場合は自らを写真家でなく画家と定義している。
グーチョウも絵画的なアプローチが強い。コンピューターを使い様々な風景を組み合わせ風景写真をつくる。遠景、中景が極端に省かれていたりするためか、奇妙で居心地の悪い感じがする。そのためか奥行きが感じられなかったり、夢のような浮遊感を感じる。
18世紀のオランダやイギリスの風景画家も色々な風景を組み合わせ、一つの理想とする風景画を描いていた、その方法の現代形。ただ理想を作り出そうとしているわけではない。
 
まだ他にも魅力的な作品、アーチストがあったがこのへんにしておこう。このようにベッヒャー夫妻以降の作家は、方法的にはザンダー的な客観性、即物性から逆の方向へ進んだ。つまりイマジネーションの力により、ひとつの作品を細部まで徹底的につくり込み作品を成立させる。だがそれは、たんに個人的な美意識を満足させるためでもなく、ましてや自己表現のためでもない。
それはザンダーやベッヒャー夫妻が成立させた写真が持っている特性の即物的客観性を、デジタル技術の力を借りてより推し進めた結果だ。
そしてそれは、歴史性からではなく現在そのものを、どのようにとらえるかという問題(現代思想が哲学から社会学、カルチュラル・スタディズに移行した事と同じ問題)が存在する。
現在をどのようにとらえ、考えるのか。アーチストだけの問題ではないだろう。
 
 
 
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