サイ・トォンブリ、この奇妙な名前を持ったアメリカ人のアーティストの作品に出会ったのはいつだったか。25年も前、フラフラと入った新宿紀伊国屋書店の画集売り場だったような気がする。
何気なく開いた画集から飛び込んできた一枚の絵画に私は釘づけになってしまったのだ。実際その時だけでなく、その後何年間もサイ・トォンブリの作品に影響を受け、拘泥することになるのだが。とにかくその絵画はインパクトがあった。インパクトがあるというと一般には力があったり、はっきりして激しいものだったりするものだが、その絵は逆で、まるで力が抜けているように見えたのだ。へなへなと力が抜けているのにテンションが高く強い、それはどういうことなのだろう。
それがサイ・トォンブリの絵画との出会いだった。
 
サイ・トォンブリはジャクソン・ポロックなどの抽象表現主義以降の次世代に属し、実際ネオダダのアーティストであるロバート・ラウシャンバーグやジャスパー・ジョーンズとニューヨークでスタジオを共有していた。
とはいっても彼ら二人は直接的で、メディアやオブジェを取り込んだアメリカらしいスタイルだが、サイ・トォンブリはヨーロッパ的で、断片をちりばめ、ほのめかし、象徴性が高いスタイルだ。またアメリカの人工的な光ではなくギリシア・ローマの地中海の自然な光に満ちていて詩的な想像力を刺激していく。
アメリカの現代アートは抽象表現主義以降ポップアートやミニマリズムと様々なスタイルが生まれたが、彼のスタイルは独特で、サイ・トォンブリひとりしかいない本当の意味でオリジナリルなアーティストだ。彼は判読できない文字や記号を描いた新しいスタイルの絵画を作り出し、絵画というよりドローイングといった感覚で絵画をつくり続け、現在はローマに住み、立体や写真制作もしている。
 
サイ・トォンブリの絵画は線が魅力的だ。
「無意味な手のつぶやき」といった感じで、力が抜けた線、引っかいた線、グルグル繰り返す子供や知的障害者が描いたなぐりがきのような線、様々な線のヴァリエーションが躍動し震え、画面の中で絶妙の空間を構成している。
サイ・トォンブリの線を見ていると、線をひいていく快楽そのものを感じられ恍惚となる。
どんな意味を志向して線をひいているのかわからないが、線そのものが饒舌に語りだし歌い始めるのだ。だから音楽を聞くように見る側は、ただ見る事自体に身をゆだね線のハーモニーを楽しめばいい。彼の大画面の作品はまるでオーケストラによるモーツァルのシンフォニーのように繊細で多層的で拡がりを持っているのだ。
 
この線はどのような意味があるのだろうかと考え迷い、その結果、だからこの絵(現代アート)はわからないという人は多いが、たとえば、モーツァルトを聴いて、一々この音が持っている意味は何だろうと、考え聴いてしまうことで聴くことの楽しみを逸してしまう事と、アートを無理にわかろうとしすぎて、アートを楽しむ機会を逃してしまうことは、僕には同じ事のように感じる。
勿論、モーツァルトにもサイ・トォンブリにも、自分の仕事・歴史の流れ中でのコンテキストがあり、哲学があり、コンセプトはあるだろう。そして実は意味もあると思う。けれども大切なことは、私達がその作品を見て最初に訪れてきた感覚や感情そして疑問から出発することだと思う。まずそこから考えていけば「ある意味」に到達するだろう。
しかしそこでの意味は一般で言われている意味とは少し異なっている。それは意味を無化していく意味だったり、本当の意味を探っていく方法だったりする。何故なら一般にいわれる意味は社会のコードや網の目のように張り巡らされた約束事と解釈、既にわかっている世界をめぐる言説あるいは、言語そのものに内在している論理と整合性を要求していく性質で成立しているからだ。
いいかえれば、すでにわかっている意味しか意味として受け取れないからだともいえる。
しかし、実際に考えてみれば、世界について、人間についてわかっている事などごくわずかで、圧倒的にわからないことのほうが多い。そのわらないことに向けてのアプローチがアートや思想や哲学と呼ばれるものなのだ。
だからつくる側も既成の感覚や思考・論理では現在のわからないものには歯が立たない。そこで、わからない内側に頭から突っ込んでいき、その人間の最も先鋭的な、あるいはプリミティブな感覚と思考をたよりに仮説を組み立てていくこととなる。
そのようにしてひかれた線がサイ・トォンブリの線だ。
だから、「無意味な手のつぶやき」だが同時に「本当の意味を探す手のつぶやき」でもある。
 
サイ・トォンブリは陸軍に記号制作者として従軍し、その時の経験が彼の独自のスタイルに影響を与えたといわれている。
また、訓練時(一説によるとベトナムで)、夜にまわりが寝静まった後、暗闇の中ベッドでドローイングをしていたとどこかで読んだ記憶がある。
それが真実でもそうでなくとも、その逸話はサイ・トォンブリにふさわしいと感じる。
暗闇の中での触覚としてのドローイング、生きる事と等価の根源的な線をひいていく事への欲望がそこにあるからだ。
 
以前、友人と私の絵画について話していて、こんなことを聞いた。「小学生だった彼の子供が学校から帰ってきて『お父さん、僕、今日学校ですごく頭に来たことがあったんだ』といって、いきなり紙に鉛筆でガーっとなぐりがきをはじめたことがあった、そしたらすこし落ち着きを取り戻したんだよ。」
描かれたものには記号的な意味はないかもしれないが、描く側にとっては切実な意味があり、描かれたものにも象徴的な意味があるかもしれない世界だ。
サイ・トォンブリの手のつぶやきの世界と共通したものがここにある。
 
勿論、サイ・トォンブリの画面は線のつぶやきだけ出来ているわけではない。指に絵具をつけキャンバスや紙にこすりつけることによって、絵具や紙やキャンバスという物質が内在している詩的な力を引き出す。色彩は彩度が低いがよりニュアンスを感じさせる使い方をする事が多い。特に白の使い方は大理石の白を連想させ、物質感が強く、彼が題材にする地中海の神話世界の拡がりの感覚を感じる。
また、画面に表象された滲みやひっかきキズ、絵具の固まりや飛び散り、貼り付けられた紙などすべての要素は生(なま)であると同時に痕跡となっていき、はるか遠い時間と、今ここにある現在性が同時に感じられる。 
 
しかし、そういった画面の作り方には造形家としてセンスの良さを感じるが、サイ・トォンブリの魅力は、やはり線をひくことのはじまりに対する愚直なまでのこだわりにある。
チョークや鉛筆の先が、紙に触れ、生まれる一瞬の感覚を捕まえる。その行為にほとんどの感覚を注ぎ込み、画面に表象していくことを少しづつずらしながら、新鮮さを失わず反復していく。
一見優美だが、実のところは労働者のように同じ事を繰り返す日常的な時間の中で生まれてくるのだ。
 
また、彼のドローイングを見ていると自分も線をひきたくなる欲望が生まれてくる。線をひいていく身体の感覚がそのまま自分の身体にはいってくるのだ。
サイ・トォンブリの動き痙攣していく線は、彼の身体そのものなのだ。
そこが彼の作品の最も愚直で生(なま)で根源的な感覚だろう。そしてその線をひくことの根源性においてサイ・トォンブリは普遍的なアーティストとして残るだろうと思われる。
 
私が10年以上アートサポートをしている川口太陽の家・工房「集」は、織りや絵画などを中心にアートだけを継続的に続けている障害者施設だ。最近5年位、美術館やギャラリーなどから声がかかるようなって、様々な場所で展覧会を開いている。
その中のアーティストに斉藤裕一がいる。
彼のスタイルは自分の気に入った文字や言葉を(たとえば、ドラえもんや日本やはぐれ刑事だったりする)、細いペンで繰り返し重ね描きし密集させ、奇妙な空間を生んでいく絵画だ。
近年、水戸芸術館の企画展「ライフ」に出品したり、サンフランシスコやニュ−ヨークで展覧会を開いたり、評価をうけつつあるのだが、彼の絵がとてもサイ・トォンブリの絵画に近いのだ。
斉藤裕一は、勿論サイ・トォンブリの絵を見たことも興味もないだろう。しかし、斉藤の絵も、線をひくことの根源性だけで成立しているのだ。
知的障害や精神障害を持つアーティストにポール・クレーのようなスタイルをもつ人がいたり、ミニマルアートのようなきっちりとした立体をつくっている人がいるが、彼らも、斉藤と同じようにポール・クレーもミニマルアートも知らないだろう。
 
サイ・トォンブリもクレーもアートを学び、アートの文脈を考えてスタイルを成立させたいわばプロのアーティストだ。
それが、まったく本能に近い感覚だけで絵を描いている障害者のスタイルと共通の感覚が現れてくるということ。
不思議だが、少しも不思議でないかもしれない。次はそのあたりについて考えたいと思っている。
 
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